2016年1月に観た舞台

青年団リンク ホエイ『珈琲法要』観劇。実際にあった津軽藩士殉難事件を元に書かれたもの。かなりシリアスな内容なのだが、全編津軽弁で、山田百次の脚本らしく登場人物の会話のやりとりがおかしくて、楽しんで観られた。津軽弁の響きはなんとなくユーモラスだ。それに、意味は理解できても、細かいニュアンスなどはわからないから、内容のシリアスさがそれほど直接的に迫ってこないというのもあると思う。山田百次による開演前の津軽弁講座(?)も楽しく、自然と「芝居を楽しもう」というモードになる。標準語での上演だったら、もっと暗い印象を与える芝居になったに違いない。アイヌ民族との交流も描かれており、特にアイヌの女性がムックリを吹くシーンが印象に残る。ある場面でアイヌ民族が和人に対して抱いている感情が一気に迫ってきて、息苦しくなった。

the PLAY/GROUND vol.0『ブルールーム』
(前のエントリーに記したので割愛)

岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』観劇。つまらなかった……。役者たちが皆動物を模した仮面をつけて出てきて、動物のような声を出したり動きをしたりする。原始時代?よくわからないけど、滑稽な感じで、最初はまあまあ興味深く観ていたけれど、ストーリーもなくなんのつかみどころもなく、ただ修辞的なモノローグが延々と続くだけなので、集中力が途切れて寝てしまった。寝てしまったというより、積極的に寝たという感じだったかも。松村翔子、武谷公雄など魅力的な役者が出演していたのだが、皆仮面をかぶっているので役者を見るという感じではないし。最後まで入り込めないまま終わってしまった。さすがにこれはつまらないよな……と思いながらTwitterの感想をチェックしたら、皆結構評価している。神里さんらしいグローバルな視点で世界を捉えたスケールの大きい作品、だという。「支配者と被支配者の関係」とか移民がどうとか、他者との共生だとか様々なテーマがある。言われてみれば確かにそうだ。私が読み取れなかった(というか読み取ること、考えることを放棄した)のだった。だけど。頭を使わないといけない演劇って、私は今あまり興味がない。この作品についてもなにも情報を入れず、いわば自分の感性だけで観ようとしていたのだが、鈍いせいかなにかを感じることもできなかった。岡崎藝術座は昔はすごくポップだったイメージがあるのだが、ある時期から方向転換して、政治的・社会的なテーマを内包した作品を上演するようになった。私は『リズム三兄妹』『ヘアカットさん』あたりがすごく好きだったのだけど。

ヒヨコの神様『いい加減に気付けお前は性格悪いんだ』観劇。短篇三本のオムニバス。(劇)ヤリナゲの越寛生『スーサイド・イズ・リアリー・ペインレス』、柴幸男の戯曲をつくにうららが演出した『つくりばなし』、国分寺大人倶楽部・Straw&Berryの河西裕介『イマジン』。ヤリナゲは評判は聞いていたけど初めて観た。主宰の方が主演。この作品を観るまで、私はてっきり主宰は男性だと思っていた(男性ともとれる名前だし、劇団のイメージなどから)。非常勤講師をやりながら演劇をやっている女性の話で、実話をもとにしているようだ。短篇だったからどうなのかあまり判断できなかったけど、面白そうな感じがした。長篇を観てみたい。最後の河西さんの『イマジン』はすごく面白かった。前説でヒヨコの神様の副主宰の有吉宣人さんが登場し、自分のことなどを語る。かなりぎこちない感じで客席は白けていた。その後劇が始まる。河西さんの作品らしい、若い男女二人の美しく切ない恋愛のワンシーンが描かれる。劇が終わった後、またしても有吉さんが登場し、『イマジン』ができた経緯やトラブルなどを説明。当初はヒヨコの神様の齋藤芳隆さんが出演するはずだったが、河西さんが渋り、代わりに加藤岳史さんが出演することになったと。それでこの後同じ劇の斎藤さんバージョンが上演されることに。台詞もほかの出演者もなにもかも同じで、ただ加藤さんの役を齋藤さんに替えただけなのだが、まったく違う劇になっていた。先に加藤さんバージョンを見せることで、齋藤さんのユニークさが際立ち、笑えるものに。有吉さんの前説も含めた作品だったのだ。その構成のアイデアが秀逸。同じ台詞や状況でも、イケメンの加藤さんが言うのと、個性的な齋藤さんが言うのとでは、まるで意味が変わってくる。間に有吉さんによるぎこちないトークを挟むことで観客の心理を揺さぶる。最後の最後で有吉さんが前説で語ったことの意味がわかる……という。まんまと一本とられた。

青年団リンク・玉田企画『怪童がゆく』観劇。面白かった。大学のゼミの合宿の話。ゼミ生たちの恋愛、ゼミの先生と中学生の息子の関係などを会話だけで描く。息子を演じた玉田真也さんが、いかにも反抗期の中学生男子で、すごいウケた。ゼミ生の一人を演じたブライアリー・ロングさんの使い方が素晴らしい。最後はちょっといい話っぽくまとめすぎか。

ハイバイ『夫婦』観劇。岩井さんご自身の家族の話で、『て』の続編のような位置づけ。暴力的な父親の死を通して、夫婦や家族の関係を描く。「死」がテーマとなっているだけに、重い作風。もちろんハイバイならではの笑えるシーンも多いのだが、そう簡単に笑っちゃいけないんじゃないかと思わせる。舞台上に置かれた複数の机を、家の食卓や病院のベッド、研究所の椅子などに見立て、一人の役者が複数の役を演じてスピーディーにシーンが進んでいく。主役の菅原永二さんの独白や映像がところどころに入り、現在と過去を行き来しながら話が進むのだが、わかりにくさがまったくなくすんなり入れる。さりげなく巧みな演出だ。病院のシーンはドキュメンタリー風。父親が受けた手術や治療の内容について家族で話し合う。父親の死後、晩年の父と母の不思議な関係が明かされたりして、岩井さん自身の気持ちも少しずつ変化していく。その流れをなにも飾らずに素直にシンプルに描いているのが潔い。普通はどうしてもあれこれやりたくなっちゃうところなのに。

IAFT『客』
(前のエントリーに記したので割愛)

1月の観劇本数は7本。
ベストワンはハイバイ『夫婦』。

IAFT『客』

IAFT『客』観劇。完全予約制で、観客は自分たった一人。上演時間は約20分。観客一人に対して役者一人が付き添って回遊するという体験型の演劇だ。場所は非公開で、予約した観客にのみメールで知らされる。観客は指定された場所へ赴き、〝体験″する。
そこは、新宿御苑の裏にある古い洋館だった。正面の門を開けようとしたら鍵がかかっている。門の右側にドアがあり、そこから入るようだ。入るときれいな庭がある。が、そこに案内人はいない。建物の玄関のドアを開けたが、そこにも白いカーテンがひかれているだけで誰もいない。「すみません、すみません」と声をかけるとようやくスタッフが現れ、靴を脱いで荷物を預けるよう小声で指示された。家のなかはひっそりとしており、皆小声で話しているので、先ほど自分が大きな声を出してしまったことを恥じた。
まず、白い紙にクレヨンで子どものころの自分の絵を描くよう言われる。クレヨンは12色だったか。黒のクレヨンが一番使われているようだ。普通に女の子の絵を描く。服の色は青にした。次に、ヘッドフォンの置いてあるテーブルに移動。ヘッドフォンからはたどたどしい女性の声が聞こえてきた。「これから子ども時代のあなたが舞台に上がります。あなたはその姿を追いかけます。次の部屋に入ったら、白い座布団の上に座ってください。このことを忘れないでください」というような内容。次の部屋に移動して白い座布団の置いてある椅子に座って前を見ると、白いヴェールの向こうに女性がいて、こちらを向いて座っている。紺色のワンピースを着た、髪の短い色白の女性だった。女性は微動だにしない。これは自分の鏡ということ?女性は無表情でじっとしている。まるで幽霊のようで不気味だった。やがて女性は立ち上がり、椅子を引きずりながらこちらにゆっくり近づいてきた。やはり無表情だ。こ、怖い……。なんなんだ、この女性は。これは自分?子どものころの自分ってこと?女性はぎりぎりのところまで私に近づき、椅子に座って無表情のまま私の顔をじっと見つめた。口を動かしてなにかをささやいているようだが、口の動きからはなんと言っているのかわからなかった。とにかく目の前に知らない女性が座っており、私の目をじっと見つめているというのが居心地が悪い。ただでさえ私は普段からあまり人の目を見ることができないのだ。どこを見ていいのかわからず、女性の口元や洋服などに視線を彷徨わせていた。やがて女性は立ち上がって部屋から出ていった。私がそのまま椅子に座っていると手招きされたので後をついていった。二階へ上がり、部屋に入る。そこは真っ暗闇で、途切れ途切れに女の子の声が聞こえる。言葉が一音ずつ発せられるので、なんと言っているのかよくわからない。とにかく暗闇のなか、舌足らずな子どもの声(大人の声かもしれないが子どものように聞こえた)がかすかに聞こえる……というのは相当怖く、ホラー映画の主人公にでもなったかのようだった。なんなんだ、これは。先ほどの無表情の女性といい、お化け屋敷のようなものなのか。私は怖いものが好きなので面白かったが、ちょっと逃げ出したいような気分にもなった。しばらくするとドアが開きさっきの女性が現れ、また別の部屋へ。今度の部屋はスモークがたちこめていて、なにも見えない。女性にベッドに寝るよう指示される。目が慣れてくると確かに目の前に白いベッドがあるので、横になった。女性が少し離れたところに横になり、やはりこちらをじっと見ている。女性は私に質問してきた(以下の台詞は正確に覚えていないので違うかも)。「広い舞台にたった一人でいる自分を想像できますか」。私は想像しようとしたができなかったので、「できません」と答えた。「子どものころのあなたが舞台にいることを想像できますか」。やはり「できません」と答えた。「そのあなたになにか伝えたいことはありますか」。いや、さっき想像できないって答えたんだけど……。「ありません」と答えた。なんだか味気ない答えだったかな。ほかの人は子どものころの自分に伝えたいことをいろいろ言ったりしたんだろうか。それが作り手の狙いなんだろうし。女性は私から答えを引き出すことを諦めたのか、それで会話は終了した。これは決められている段取りなのだろうけど、観客の答えによってはその場で質問を変えたりしてもいいのでは……ともちょっと思った。というか、そもそもこれが〝質問″ではなく〝台詞″だと思ってなにも答えない観客もいたかもしれない。それでも女性は答えを待たずに次の質問をしたのだろうか。ちなみに、ほかに観た人の話では、このとき女優は最初に観客に描かせた子どものころの絵を、お面のように顔につけていたのだとか。私は女性の顔をまともに見ることができなかったので、ちらりとしか見ていないのだが、そんなお面はしていなかったと思う。私のときはお面をしていなかったのか、あるいはしていたけど私が見落としたのかはわからないけど、もし本当にそんなお面を女優がしていたとしたらかなり不気味だ。でもそうだとしたら、やはり女性は子どものころの自分を象徴してるってことなのか?単に子ども時代のことを思い出させるために子どものころの絵を持ち出したのか?うーむ。。。やがて女性はなにも言わず起き上がって部屋を出た。取り残された私はどうしていいのかわからずそのまま横になっていたのだが、先に行った女性が私の下の名前を呼ぶので、起き上がって女性の後をついていった。この「下の名前を呼ばれる」という演出もなんだかゾッとした。フルネームで予約しているわけだから、下の名前がわかるのは当然なんだけれども、「おまえのことはすべてわかってるんだぞ」というような、見透かされているような感じがした。名前を呼ばれたことで、女性が母親のようにも思えた。女性について階段を下り、また別の部屋へ。そこは和室で座布団に座るよう指示される。目の前には小さな丸い鏡。鏡のなかの私の顔は拡大されており、少し歪んでいるようにも見える。今まで子どものころの自分を追いかけてきたけれど、最後にこの鏡で今の自分の顔を見せ、自分自身と向き合えってことなんだろうか。女性は「あなたは自分自身に帰っていくのですか」みたいなことを言い(かなりうろ覚え)、それは質問のようでもあったけどなにも答えなかった。やがて女性は障子を開け、姿を消した。障子の向こうには最初に預けた私の荷物と靴が置いてあった。うーん、これは、帰れってこと、だよね?なんだか一方的に物語を押し付けられ、突然引き離されたような感じ。だって私はその物語のなかに入れなかったし、作り手が狙ったであろう「子どものころを思い出して自分を見つめ直す」というような体験もできなかった。もちろんこうした体験型の演劇は、人の数だけ異なった〝体験″があるわけだけども。うまく〝体験″することができなかった私は、なんだか消化不良で、部屋を出たあともしばらくきょろきょろ建物のなかや庭を見たりしたが、あまり長居はせず帰った。
ほかの人の感想をTwitterで見たら、「怖かった」「気持ち良かった」「懐かしかった」などいろいろな感想が。うーん、やっぱ、「怖い」よね、これ……。仕掛けがいちいち不気味だし、家も古くて陰鬱な感じで、いかにもなにかが「出そう」だし(私が観た日が曇っていたからそう感じたのかも)。そもそも、この家は今はレンタルスペースのようだけど、もともとは誰かが住んでいたわけだよね?住んでいた人の霊が漂っていそうな……考えすぎか。あと、子どものころの自分、というのをテーマにしているけど、「懐かしい」とかいうポジティブな感情よりも、むしろ暗い感情を引き出された感じだった。やはり「怖い」演出だったからだろう。しかもそれが突然遮断されるので、自分の暗い記憶を、知らない家に置き去りにしてしまったような気持ち悪さがある。
男性の感想で面白かったのが、「女優が可愛い」「リフレのよう」といったもの。私はあの女優は自分を投影する存在、自分の子ども時代を象徴した存在だと思っていたのだけど、男性は女優に自分を投影したりはあまりしないだろうから、単に「女優」として見ているのだろう。確かに、可愛い女優と一対一で20分間を過ごし、しかも途中至近距離からじっと見つめられたりするわけだから、嬉しがる男性がいるのもわかる。だとすると、この演劇は男性と女性では受け取り方にかなり差が出るのかもしれない。

the PLAY/GROUND vol.0『ブルールーム』

the PLAY/GROUND vol.0『ブルールーム』観劇。デヴィッド・ヘアーの脚本を、元tptの薛珠麗が演出したもの。男女の愛や性、裏切りを描いた脚本が面白い。演出・美術・照明・音楽が洗練されていてオシャレ。役者もよく、芝居全体の雰囲気がとても心地良かった。

5人の男性と5人の女性が登場し、男女1組ずつの場で構成されている。男女が5人ずつだったら普通は5組で5つの場ということになるが、この芝居では10組のカップルが出てきて、10場まである。登場人物が皆、2人の異性と同時に関係を持っているので、10組のカップルが生まれるというわけだ。次の場に移るときに、ペアの相手が一人ずつ入れ替わる。情熱的に女を口説いていた男が、次の場ではまた別の女に似たようなことを言って口説いていたりする。第5場では愛し合っている夫婦が登場するが、第6場では夫が若いモデルと浮気している。けれど、第4場では妻が学生と浮気している。どの場も男女のセックスシーンが出てくるし、場と場がシームレスに続いているので、セックスの相手が変わっているというのが生々しい。男も女も、よそでなにやってるかわからない、どいつもこいつも信用ならねーよ、という、まあ結構ゲスい話だ。このような男女の愛と裏切り、というのがこの作品のテーマである。

他者を求め、愛することが、別の誰かを裏切ることになる。そのことで罪悪感を抱えていたり相手を疑ったりしている。疑いながらも身体を求め、愛し合う。そこに本物の愛があるのかどうかはわからない。ひとときの温もりや快感を求めているだけかもしれない……。こうして葛藤する男女の姿は無様で滑稽だ。だけど彼らは皆、自分の心に正直に生きている。

目の前の相手だけを愛しているふりをして、実はほかの人とも関係を持っている……というのは、ポツドールの『恋の渦』を思い起こさせる下世話さ。だけどこの作品ではそれを、凝った構成でストイックに表現。演出が非常にスタイリッシュで、ドロドロしたものをあまり感じさせずに男女のエロスを描いている。人間の孤独や葛藤というテーマもしっかり伝わってきた。要所要所でピアノの生演奏が入ったりミラーボールが回ったりするのがかっこいい。ワインを飲みながら観ていたというのもあり(1ドリンクつきだった)、こういった洒落た演出が心地良かった。そう、こういう芝居は、ワインを飲みながらじっくりゆったり味わうのがいい。

この芝居を楽しめたのは、役者の魅力が大きい。今回は3つのバージョンがあり、私が観たのはAバージョン。10人の男女一人ひとりが魅力的で、生き生きしていた。ことに女優が素敵。モデル役の灘波愛は、ショートカットで色白で、可愛くセクシーだった。しどけなく肩を出す仕草にドキッとし、美しい鎖骨が露わになってさらにドキッとした。女優役の森下まひろはとにかく美しい。キツくてわがままだけど「女優」としての圧倒的なオーラを持っているという役。彼女の背中も白くて美しかった。

2015年の舞台ベストテン

2015年観劇本数:63本

ベストテン

1位:アンジェリカ・リデル『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』
2位:ゴキブリコンビナート『ゴキブリハートカクテル
3位:ブス会*『お母さんが一緒』
4位:Co.山田うん『舞踊奇想曲 モナカ』
5位:寺山修司作、藤田貴大上演台本・演出『書を捨てよ町へ出よう』
6位:ネルソン・ロドリゲス作、三浦大輔上演台本・演出『禁断の裸体』
7位:飴屋法水作・演出『ブルーシート』
8位:岩井秀人×快快『再生』
9位:KAAT『アドルフに告ぐ
10位:On7『その頬、熱線に焼かれ』

【総括】
年間の観劇本数が63本という、ここ10年でもっとも少ない本数。一番多かった時期に比べて4分の1の数だ。自分でもビックリ(まあ、以前に観ていた本数が尋常じゃなく多かったのだけど)。もちろん本数がすべてではない。けれど、一応仕事もしているし、もうちょっと頑張って意識的に本数を増やしていかなければならないだろう。
本数が減ったのにはいくつかの理由がある。前半期は仕事が忙しくて芝居どころではなかった。そして、芝居というものは、観れば観るほどさらに観たくなるが(劇場行くとチラシをいっぱいもらえるし)、一度遠ざかってしまうとなかなか観劇の習慣を取り戻せなくなるものだ。次第に劇場に足を運ぶことが億劫になり、どうしても観たい芝居や招待いただいた芝居、Twitterなどで話題になった芝居だけを観るようになった。特にTwitterの影響は凄まじい。高評価のものだけでなく、賛否両論で話題になっているような芝居が気になった。1位に挙げたアンジェリカ・リデルも、Twitterで賛否両論を巻き起こしており、気になって観に行ったのだ。普段からアンテナを張り巡らせて意識的に情報を得ることが必要だ。自分の観たいものや気になっているものだけを観ていては、世界が狭まってしまう。これは自分の来年の目標としようと思う。
観た芝居の数は少なかったが、今年もいろいろ面白い芝居に出会えた。それにしても、ベストテンに挙げたタイトルを見ると、なんか私の好みって昔からほとんど変わってないんだなあ……。

2015年12月に観た舞台

飴屋法水作・演出『ブルーシート』観劇。初演は2013年。飴屋法水が、いわき総合高等学校総合学科の10名の生徒たちと作り上げた作品だ。彼らは、震災があった2011年に高校を受験した。震災があったせいで合格発表が一ヶ月遅れ、入学後は校庭に建てられた仮設校舎で授業を受けた。彼らの実体験をもとに、震災後の生活や放射能への恐怖などを描いている。ただ再演では彼らは高校を卒業しており、卒業後の彼らの生活を描きつつ、高校時代を振り返る・・・というような構成になっている。ドキュメンタリー色の強い芝居、というかドキュメンタリーだ。時が経ち、彼らも卒業してそれぞれの道を歩んでいる。再演を観て震災の風化を感じた人は多かったようだ。しかし震災後も東京で生活していた私は、当時の彼らの置かれた状況、日常生活がどんなだったか体感していない。安全な場所で芝居を観て、彼らの境遇に想いを馳せているだけだ。当然ながら、自分が彼らのような目に遭ったらどうしていただろう・・・と考えた。私は実家が被災したのだが、なにもできなかった。なにをしたらいいのかわからなかった。ただ一人で悶々としていただけだった。こんなにも大変な思いをした人たちがいるというのに。大変な目に遭いながらも、演劇の力を借りたり仲間たちとの絆があったりでなんとかかんとか毎日を生きていく・・・というようなことが、自分にできるのか、と考えた。予想外の出来事に遭ったときどのように行動するか。悲惨な目に遭っても前向きでいられるのか。この芝居を観て、震災のときになにもできなかった自分、なにもしなかった自分を思い出し、自分はいったいなんなんだろう、と思った。「人は見たものを覚えていることができる、見たものを忘れることができる」。私は自分のひどさから目を背けようとしていたのかもしれない。

松本雄吉演出『レミング』観劇。寺山作品というより、維新派天野天街作品といった感じ。寺山の言葉に天野天街の言葉を加え、それをジャンジャンオペラにし、かっこよく見せている。面白いけれど、寺山っぽい要素は思ったより少なかったような。維新派天野天街ファンにはたまらない作品であろう。

RooTS Vol.03 寺山修司生誕80年記念『書を捨てよ町へ出よう』観劇。藤田貴大上演台本・演出。寺山だった。先日観た『レミング』よりも、ずっと寺山だった。つまり、すごく面白かった!映画を観たのはだいぶ前だが、覚えていた。忘れるわけがないのだ…。もちろん、映画とはだいぶ違う。構成も表現の仕方も。だけど伝えたいことは同じだ。恥ずかしながら、村上虹郎という役者は知らなかった。すごくよかった。何者でもない、なんの力もない、ただただ家族や世の中に苛立ち、もがいている。そんな若者の行き場のない思い、静かな怒りが伝わってきた。演出、装置、照明、音楽、そして映像。すべてがものすごいことになっている。藤田さんはどうしてこの本からこんなことを考えつくことができるのだろう。意図がわからないところもあったけど、でもすごい。かっこいい。『レミング』は途中で飽きたけどこれは全然飽きなかった。アングラでもなければ、寺山作品に繰り返し出てくるテーマ(母との愛憎の泥臭さとか)を深く描いているわけではない。むしろ寺山作品とは真逆の、スタイリッシュな舞台だ。なのに、この本の本質をついている。

猫のホテル『高学歴娼婦と一行のボードレール』観劇。東電OLを題材にした作品。前半はまだ笑いがあったが、後半はシリアスな感じ。猫ホテ的な笑いを期待していた私はちょっとがっかり。せっかくこれだけの面白役者がそろっているのに。。。しかもシリアス路線としてもあまり面白くない。うーむ。。。

『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』観劇。暗闇のなかを小さなライトを持って進む回遊観劇式。マメ山田をはじめとする「ドワーフ」たちが、暗闇のなかで様々なものを発見し、遊ぶ。観客はただその様を見ているだけなのだが、ドワーフたちの行動が予想外でユーモラスで面白い。ドワーフたちの動きは予測不可能なので、観客は彼らの動きに合わせて暗闇のなかを移動する。後半は観客参加型となり、ドワーフたちを乗せた乗り物を観客が動かす。彼らは劇場の外へ出ていき、ロビーへ出ていき、エスカレーターで一階へ上がる。観客も後を追う。一階に着くと、入口横のモニターにタニノさんの本作に対するインタビュー映像が映し出される。ドワーフたちは外へ出て行く。身体的な障害のある人を舞台に上げ、「見世物」として成立させることは難しいが、本作のドワーフたちは無邪気で愛嬌があって、なんだか可愛らしかった。

12月の観劇本数は5本。
ベストワンはRooTS Vol.03 寺山修司生誕80年記念『書を捨てよ町へ出よう』。

2015年11月に観た舞台

MCR『我が猥褻、罪なき罪』観劇。辛かった…話が面白くないし、笑いも中途半端。脚本がギリギリだったのか、役者は台詞が入っていない。自分には合わなかった。


マーティン・マクドナー作、小川絵梨子翻訳・演出『スポケーンの左手』観劇。どこにも行き場のない人間たちの焦りや苛立ち、閉塞感を感じさせながらも、そのやりとりは限りなく滑稽。素晴らしいコメディに仕上がっていた。役者がみな素晴らしい。特に成河の一人の場面は見物。中嶋しゅうが迫力。蒼井優もすごくよかった。黒人の彼氏(岡本健一)とともに悪だくみをし、結果つかまってひどい目に遭うという役。彼女のパワフルかつコミカルな演技はよかった。岡本健一との息もぴたりと合っていた。実は救いのないシリアスな話なのに笑えてしまう。皆、人間らしいのだ。謎が謎のまま残されていたり、なにも解決していないのがいいと思った。よく考えるとわからないことが多い。すべてを明らかにするのではなく、観客の想像に任せているのだろう。その結果、そこに現れる人間たちの心情や、ひとつひとつの場面の空気がより濃厚になっていた。


ブス会*『お母さんが一緒』観劇。バリ面白かったと!何度も泣き笑い。三姉妹の言い合いは、まさにあるある!だし、「血って怖かね〜」っていうのも、ほんとそうだ。岩本えりさんの長女のウザがすごい(笑)。三姉妹の長女で、かつ40歳にして独身、という私にとっては、もう身につまされる台詞ばかり。だけど嫌な気持ちになるわけではなくむしろ逆。この三姉妹を見ていたら、ものすごく痛快になり、なんか勇気もらった。ブス会のなかで一番好きかも。


アンジェリカ・リデル『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』観劇。すごかった。のっけから、リデルのマスターベーションのシーンがあり、度肝を抜かれる。だって丸出しだし・・・これ、こんなのやっていいの?大丈夫なの?と。なんか見ちゃいけないものを見てしまったようなショック。前半は、ワーズワースの詩や映画『草原の輝き』の引用、上海でワルツを踊る人たちのシーン(実際に踊っていて、バックにはオーケストラが!)。ネバーランド、ウトヤの射殺事件にも触れているのだが、テーマの繋がりがあまり感じられないというか、どこかとりとめのない感じも。しかし後半は圧巻。広い舞台でリデル一人でのパフォーマンス。マイクを持ち、身体をパワフルに動かしながら様々なことへの呪詛を延々と吐き続ける。『朝日のあたる家』がかかり、彼女も歌ったりする。腹の底から出している迫力ある声で、早口で語られる台詞の数々に圧倒される。そこで吐き出される台詞は、欺瞞に満ちた世の中や偽善者への批判。その内容は、若いころに考えるようなものだ。歳をとると自然と丸くなり、そういう批判精神は薄れ、どうでもよくなる。でも、50歳間近のリデルがそれを語ることに意味があると思った。
なかでも、「母」に対する憎悪は凄まじい。一般的には、「母親であること」「子供を産むこと」は神聖なことであり、なにより尊ばれることとされる。母親になったというだけで敬意を払われ、特別扱いされ、赤ん坊は無条件で皆に愛される。しかしリデルはそれを痛烈に批判する。私はそのリデルの激しい言葉に震えながら、心の奥底で、「よくぞ言ってくれた!」と思った。私は自分の暗部を覗き込んだ。パンドラの箱をこじ開けられたようだった。少子化が問題視されている今は特に、「母」を否定することは絶対的なタブーだ。それに、実際に母となっていない私は、「母」なるものを否定する権利なんかないのかもしれない。しかし私は、世の中において「母」が絶対視されることに違和感を覚えている。どんな小説も映画もドラマも、「家族の大切さ」を語る。私はそれが気持ち悪い。育児や家事を、すべて当たり前のように母親がやっていることが気持ち悪い。その母親の自己犠牲的な行動が気持ち悪い。こういうのが「幸福」だとされる世の中の空気が気持ち悪い。しかし、私のそんな思いは、もしかしたら母となった人への嫉妬なのかもしれないし(なにかを批判したり嫌悪するときって、その対象への嫉妬があることも多いと思うから)、万が一自分が母になることがあれば、こんな気持ちは簡単に変わってしまうかもしれない、とも思うけれども。
cinra.netに掲載されたリデルのインタビューを読んで、彼女が実際の母親を嫌悪していることを知った。「死にゆく命である自分を産み落とした」からだという。つまり彼女は、自分に「死」や「老い」への恐怖をもたらした母親が許せない、というわけだろう。インタビューで「老い」について聞かれた彼女は、「老いは死に近づくわけだから、人間にとって最悪の出来事。老いると人に愛されなくなり、未来においても愛される可能性が断たれる。老いに美しさなど微塵もない」と切り捨てている。この舞台では、では人間は老いたらどうやって生きていけばいいのか?などということに対する答えは示されない。それは当たり前だ。答えなんてないからだ。リデルはただ、老いへの憎悪を撒き散らすだけだ。そしてそれを受けた観客は、傷を抉られながら、それが自分にとってどんな意味を持つのかを考えるだろう。
リデルが糾弾するのは老いや母親だけではない。世の中の「善人」、たとえば「仕事はお金のためではなく人のためにやっている」と言うような人。そんなのは偽善だと吐き捨てる。一般的に「穏やかな幸せ」とされていることを、「バカげている!」「退屈」ととことん批判。そんなリデルに激しく共感したのは、私も若いころはこのように思っていたから。だけど40歳になって、私はかなり「穏やかな善人」になってしまった。私は人と争いたくないし、親や兄弟や恋人や友達を大切にしたい。仕事も普通にしたい。とにかく普通の生活を送りたいと思っている。けれど、これも偽善なのかもしれず、本当は私は普通の生活なんて送りたくないと思っているのかもしれない。仕事もしたくなければ人とのつながりも面倒くさい。社会から孤立していようが、自分の好きなように生きたいと思っているのかもしれない。けれど社会で生きている以上、完全に孤立することは不可能だ。孤立は死をも意味する。人として生まれたことの意味を問い、呪い、どんなに毒づいたって、理論的に批判したって、あるいは海外とか遠いところに逃げたって、結局人は血縁や社会から逃れられない。たとえば私が日本人であること、私の両親から生まれた事実は、世界中どこに逃げても追いかけてくる。だったら腰を据えるしかなくて、そのなかでどう折り合いをつけて生きていくか……ということになる。リデルの毒に当てられて、ぐるぐるぐるぐる思考は巡る。


岡田利規作・演出『God Bless Baseball』観劇。野球をモチーフにして日韓米の関係を描いた作品。野球のことを知らない女の子たちに男の子が野球のことを教える。女の子は日本語で、男の子は韓国語でしゃべるのだが、しゃべっているうちに、実は女の子のほうが韓国人で男の子のほうが日本人だということがわかる。イチローの偽物も登場して、イチローの発言や日本と韓国の試合についての実話が語られ、日本と韓国の関係を問う。そこに英語の台詞が入ってきて、日韓の背後にあるアメリカの存在が描かれる……というような内容。野球を絡ませて描いたのはうまいと思ったし、最初のつかみが面白く、すぐに惹き込まれた。しかし、途中、政治の話になったあたりから醒めてしまった。自分の身体を自分の身体でなくするために、全身をくねくねさせながら身体の感覚を放棄しようとする。これは何者かに支配されることを受け入れようとしている……ということなのだろうか。終盤では、息子が執拗に父に問いかけるシーンがある。息子を日本に、父をアメリカになぞらえているのだ。このようにいろいろな暗喩を用いて政治的なことを描いているのだが、なんかあざとく感じてしまった。「想像しろ」という台詞の後、背景にある巨大な傘に水が投げかけられ、傘がどろどろに溶けていく……というラストはいろいろな解釈ができそうだ。


シベリア少女鉄道『Are you ready? Yes,I am.』観劇。すごい面白かった!笑った笑った。バカバカしいことをこれでもかというほど凝ってやってみせる……すごいエンターテインメント。やっぱシベ少面白い!舞台はヨーロッパ。洋館に住む令嬢・クラウディアは、探偵の能力があり、望んでもないのに謎が向こうからやってくるという。そのクラウディアのもとをカップルが訪れ、事件の解決を依頼。そこに刑事が現れ、クラウディアに事件を依頼したカップルを批判。しかしクラウディアは、話を聞いただけで事件を見事に解決。というようなお話。前半はクラウディアの演技が過剰で、やたらと間をとる溜める演技を繰り返す。もちろんこれは伏線で、後半につながっているのだろうということは、長年シベ少を観ている人間にはわかっている。そして後半。暗転の後、冒頭のシーンが繰り返される。のだが、なんだか役者の演技がおかしい。そう、ほかの役者もクラウディアのように過剰な演技になっているのだ。役者たちはこの芝居の登場人物というだけでなく、「この芝居をちゃんと演じたい」という意思を持った役者、として舞台に立っているようだ。彼らは真剣に演技がうまくなりたいと思っているので、過剰な演技をするばかりでなく、台詞を言う前にウォーミングアップしたりする。そのアップもアクロバティックなものになっていく。その後、「演技には心が大切」といった台詞(それは別のニュアンスで発せられているのだが)の後で、登場人物は「そうか、心だ!」と「心のこもった演技」をしようとする。たとえば「お前は甘いんだよ!」という台詞を言うために、砂糖を舐め、心から「甘い!」という台詞を言う、といった具合だ。このように、ある台詞を言うために、それと同じ言葉(全然意味のない言葉)を無理矢理言い、その行為をする。そのためにそれ用の衣装や小道具が出てくる。ほんのワンシーンなのにだ。ルパン三世名探偵コナンも登場。特にコナンは笑った。細かすぎる。しかも、元ネタを知らない人にとってはまったく意味のないシーンにもかかわらず、だ(だからこそネタを知っていると楽しさ倍増なのだけど)。なんだか文章だとこの芝居の面白さが全然伝わらない気もするが、一言でいえば、バカバカしいことを緻密に構成した芝居。


篠田千明演出『非劇』観劇。ロボットが出てくる未来の話。といってもストーリーがあるわけではなく、シーンを重ねて見せる。テキストがあまりピンとこなくて、最後まで乗れなかった。演出やダンスなど面白い部分もあったのだけど。


ソン・ギウン作、多田淳之介演出『颱風奇譚』観劇。これはすごい舞台だ。シェイクスピアの『テンペスト』を1920年代の南シナ海の島に置きかえ、国を追われた朝鮮の太皇と島におびき寄せられた日本の政治家や軍人たちを描く。物語を通して日韓の問題、間に立ちはだかるものに、真っ向から切り込んだ。韓国で上演されたときには「親日的だ」という批判も多かったという。日本の上演では当然反応も違うだろう。観た人から、様々な意見、感情的な反応を引き出したということは、それだけ作品に力があるということ。物語もいろんな解釈ができて興味深い。ラストは原作と大きく異なる。原作では、国を追われた大公が、最終的には自分を裏切った弟たちを赦し、和解する。シェイクスピアらしいハッピーエンド。しかしこの芝居はそうはならない。一週間に渡ってあらゆる書物が燃やされる。ついには「アジアのために!」と叫びながら、日本人が朝鮮の太皇を刺殺してしまうのだ。「日本のため」ではなく「アジアのため」。間違った正義感が、歪んだ歴史を作ってしまう……。


11月の観劇本数は8本。
ベストワンはアンジェリカ・リデル『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』。

2015年10月に観た舞台

ロベール・ルパージュ『針とアヘン』観劇。ルパージュの新作。宙に浮かぶ立方体の部屋(星空にもなる)が回転し、そこで俳優が演じる。マイルス・ディヴィスの曲を演奏するトランペット奏者も登場。魔術的な映像で、俳優が空中を飛んでいるように見えたり、部屋から突然消えたり現れたりするように見せている。そういう舞台装置や映像がすごくて、魅入ってしまう。マイルス・ディヴィスやジャン・コクトーをモチーフとし、ケベックから仕事でアメリカに来た男の話を描く。アメリカへの批判的な台詞もあり、文化や民族性の違いといった国際的な問題を描いている。けれど、大切な人と別れたばかりで心に穴が空いている男の個人的な話でもある。鍼とアヘンだけが傷心を癒してくれる・・・という。シリアスなだけではなく、とてもユーモラス。男が仕事で理不尽な要求をされる様や、ホテルで男が隣りの部屋の騒音に対しフロントに苦情の電話を入れるやりとりが笑える。

チーム夜営『タイトルはご自由に。』観劇。SFもの。HPのあらすじを読んだら、今まで観たことのないなにか新しい、ワクワクするような世界が提示されそうで、大いに期待して観に行った。場所は恵比寿ガーデンシネマ。小規模な公演ながら、演劇関係者が結構いて、注目度が高いのだな・・・と、余計に期待が膨らむ。内容は、調査のため、100年もの時間を宇宙船のなかで過ごすことになった人間の男とAIの会話劇。男は退屈を紛らわせるため、映画を観たり本を読んだり、AIと会話したりする。そして最後に地球の映像を受信する。この男のように、調査員として100年間、AIとともに宇宙船で過ごした人間は過去に何人もいた。彼らもまた、退屈を紛らわせるためにいろいろなことをした。ある者は小説を書き、ある者はAIと疑似恋愛を。AIは何百年もの間、そうやって様々な人間たちと接してきたのだ。もちろんAIには実体がない。しかし、話の途中でスクリーンに映像が映し出され、AIが実体化してAI役の女優が登場する。その後は男とAIの会話が続く。「人工知能」という題材やストーリーは面白かったのだが、二人の会話が淡々としており、照明も暗い・・・とあって、途中寝てしまった・・・(私は照明の暗い芝居はほぼ寝てしまうのだ)。SFものとして見ても、それほど目新しいという感じはせず、わりとありがちな話にも思えた。当日パンフと一緒に配布された冊子のマンガが面白い。芝居に出てくる男以外に、100年間宇宙船で過ごした人間の話が二編。個人的には、SFものは舞台よりマンガとかのほうが想像をかき立てられるような気がする。気が遠くなるような時間を宇宙船で過ごす・・・それは想像を絶する体験だろう。

彩の国シェイクスピア・シリーズ第31弾『ヴェローナの二紳士』観劇。女性役も男優が演じるオール・メールシリーズ。『ヴェローナの二紳士』はシェイクスピアの初期の戯曲なので、ほかの作品に比べるとなにかと粗さが目立つ。ラストは強引なハッピーエンドで、「え?」という感じだし(まあ、ほかの作品も、そんな強引さはあるけれど)。だけど蜷川さんの演出では、そういう戯曲の粗さも含めて「喜劇」としてわかりやすく描いており、観ていて単純に楽しめた。
ジュリア役の溝端淳平くんは、初めての女性役。可愛いし、恋する女の一途さが伝わってきて、目が釘付けに。たけど、ベテランの月川悠貴くんの女性役と比べてしまうと、やっぱり技術的にはいまひとつかな・・・という気がした(月川くんと比べるのも酷なのだけど、やっぱり目がいってしまう)。月川くんはやはりすごい。立ち居振る舞い、台詞の言い方、表情の作り方。どれも素晴らしい。高貴さを漂わせながらも、ちゃんと恋する女性の顔をしている。自分が好きじゃない男のことはこっぴどく振るけれど、好きな人にはとことん一途な女性。蜷川さんがパンフレットで、「オール・メールシリーズになくてはならない俳優」と、月川くんを褒めていたほどだ。
また、この芝居は道化の役割が大きいのも特徴だ。ヴァレンタインの召使のスピードと、プローティアスの召使のラーンス。道化的な二人の掛け合いが面白い。この二人のシーンは、戯曲にない台詞も足されたようだ。これがあることで、一層喜劇としての面白さが増していた。特にラーンスを演じた正名僕蔵さんは、犬を連れての演技が見事。ラーンスが連れている犬は本物の犬だ。お座りとか伏せとか、指示通りにするんだけど、かなりの暴れん坊で、ラーンスの服や手首をくわえたり、ラーンスを引っ張ったりと、動きが激しい。正名さんがそんな犬に翻弄される様は笑えた。暴れる犬に、「痛いよ!」などとアドリブ風な台詞を言ったり。
ラストはベタベタなハッピーエンドながら、祝祭感に溢れていて、気分が高揚した。

サンプル『離陸』観劇。3人の俳優の濃密で官能的な空間。兄と弟、兄と妻、弟と兄の妻、という関係が絡み合う。それはとてもスリリング。兄が弟をそそのかして自分の妻と旅行に行かせたり、その結果弟はまんまと兄の妻と関係を持ったり。兄と弟は異様に濃い関係で、次第に性的なものが顕わになる。最後は、三人が机の上で蛇のようにエロティックに絡まり合う。3人とも身体の動きがなんというかすごく変態的。うねりながら一つになり、高みに行くようなイメージ。3人とも素晴らしかったが、とりわけ兄役の伊藤キムさんは、異質ともいえるような存在感があった。

西沢栄治演出『四谷怪談』観劇。お岩と伊右衛門の話に焦点を絞るのではなく、お岩の妹のお袖、お袖の二人の夫、伊右衛門のことを好きなお梅、お梅のために画策する祖父の喜兵衛など、一人一人のキャラクターや背景をわかりやすく、かつスピーディーに描く。仇討からはぐれてしまった赤穂の浪人たちの姿も生き生きと描いている。いろいろな立場の人が出てきて、仇討しようとしたり横恋慕したり、だましたりだまされたりする。なんか人間って愚かだけど愛しい・・・とか思った。歌舞伎の台詞をリズミカルに言っており、見ていて気持ちいい。役者は皆熱演で、生き生きしていた。伊右衛門役の鯨井康介は、野生の悪の色気を感じさせる。やっぱりこういう悪い男は、いい男が演じないとね。特にラスト、桜吹雪が舞う中の殺陣のシーンはかっこよかった!

ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場『オイディプス』観劇。話がよくわからず前半は入り込めなかったが、後半の演出、装置がすごく、度肝を抜かれた。日本ではこういう舞台はまず観られない。ヨーロッパ演劇ならではの演出や美術を楽しむ舞台。

カンパニー マリー・シュイナール鑑賞。思ってたほど奇抜ではなかった。『春の祭典』はコンテンポラリー・ダンス風。男性も女性も上半身裸で黒のショートパンツ一丁で踊る。肉体美を見せる感じなのだけど、私は後方に座っていたためあまり見えず。やはりダンスは前で観ないとだよなあ・・・。『アンリ・ミショーのムーヴマン』は、スクリーンに映し出される影絵の形に合わせてダンサーが踊るというもの。音楽もよくて、すごく面白かった。ユーモラスな感じ。

革命アイドル暴走ちゃん『Rebirthオーストラリア凱旋ver.』観劇。あうるすぽっとでの上演。公共劇場でできるんだろうかと思ったが、客席、舞台、通路、トイレまでがっちり養生していた。海外での活動を経て密度が濃くなったような。今回は特に水と紙吹雪の量がすごくて、レインコート着てても下着までびしょ濡れに。いつものことなのだけど、なんだか圧倒されて訳がわからぬまま終わってしまった感じ。だけどとにかくすごいパワーで、爽快。SNSにあげようとスマホで撮影していたら(写真も動画も撮影OKなので)いきなり水が・・・。油断できない。スマホは防水しましょう。暴走ちゃんを観ているときはいつも、飛んでくる水やら生物やらに気をとられてしまって、舞台をきちんと観れてない気がする。一度、水とかが飛んでこない状態で、純粋に舞台だけを観たい・・・とか思う。まあ、それだと暴走ちゃんじゃなくなっちゃうんだろうけど。今回は特に、大量の紙吹雪が舞台を舞い、絵として綺麗だった。センターのアマンダ ワデルさんが素敵。顔可愛いし、歌うまくて迫力あるし、胸とかすごくセクシー。はあ。。。あと、女性キャストがみんなスクール水着で踊りまくるシーンが、なんかすごくよかったなあ。若い女の子の、ピチピチした健康的な身体が眩しい。

FUKAIPRODUCE羽衣『橙色の中古車』観劇。深井順子さんの一人芝居。深井さんがキュートでコケティッシュでパワフル。客いじりも絶妙で、すごいコメディエンヌぶりを発揮。話も面白いけど、深井さん個人の魅力で惹きつけられた部分が大きい。話は、アラフォー女(だけど心はフォーティーン)が一人でアルゼンチンを旅する・・・というもので、もうこの設定だけで面白い。しかも、そのアラフォー女を演じるのが、深井さんなのだ!その旅が面白くないはずはない。英語もわからず、海外一人旅も初めてで、右も左もわからぬままやってきたアルゼンチン。最初はホテルに宿泊していただけだけどそのうち周辺を散歩するようになり、おいしいものを食べ、行きずりの若い男とSEX・・・という、ラテンな展開。台詞が面白い。「パンティは、女の国旗!」って(笑)。やがて中古車を手に入れ、南へ南へと走る。この先になにがあるんだろう?この先を見たい!という好奇心が芽生え、どこまでも走っていく女。「自分がこんなにワイルドだったなんて、知らなかった!」というような台詞。ああ、これこそが「生きてる」ってことだよ!彼女の高揚感が伝わってきて、観ているこちらも、「この先なにがあるんだろう?どんなことが彼女を待ち受けているのだろう?」とワクワク。深井さん演じるアラフォー女はどうやらバツイチで、慰謝料などでお金があるらしい。だけど詳しい背景はよくわからない。でも、仕事とか人間関係とか家族とかに囚われずにいきなりアルゼンチンに行っちゃって、行った先で自分の新たな面に気づいたりとかするのはすごく面白い。人間、気の持ち方次第でいくらでも人生面白くできるんだなあ・・・とか思った。後半は一転してポエム的というか、淡々と旅の様子、風景などが語られ、切ない感じに。このあたりからちょっと私の集中力が切れてしまった。中古車を失った後、虚無感に包まれた彼女は「はあー、日本に帰るか・・・」とつぶやく。でもそのあとすぐに、「それとも、南極行っちゃう?」といたずらっぽく笑う。そんなポジティブな終わり方がすごくよかった。

10月の観劇本数は9本。うち3本は海外のカンパニーという、珍しい月。
海外の作品は、観て面白いとかいうよりも、とりあえず観ておこう、というような感じで、よくわかっていないのかも。でも、今ヨーロッパでこういう舞台をやっているんだ、と知ることは大事だし、後になって「あのときこの舞台を観た」ということ自体が貴重な経験になったりもするので、まあいいか。