2月に観た舞台

FUKAIPRODUCE羽衣『女装、男装、冬支度』観劇。面白かったー。今回は歌が多め。いろんな男女のいろんなシチュエーションを、歌ありダンスあり で描く。女優は可愛いし、男優はセクシー。役者を見ているだけで幸せ。いろんなカップルが出てきて、笑えたり、共感したり、泣きたくなったり。

マームとジプシー『Rと無重力のうねりで』観劇。観終わってぐったり疲れた。ボクシングを題材にした男子のイジメと暴力。執拗に繰り返される「殴る/殴ら れる」シーン。無重力状態で落ちて行く男子。その姿を生々しく想像しながらも、いつかは忘れてしまう、と言う女子。痛い。けど観てよかった。

きたまり+Offsite Dance Project共同プロデュース『RE/PLAY(DANCE Edit.)』観劇。2006年の『再生』、2011年の『再/生』を経て、今回はダンサーたちと創った作品。俳優が出ていないからダンス作品というわけではない。自分のなかではやはり演劇。最初のほうはあんまり乗れなかったのだけど、『オブラディ・オブラダ』が繰り返しかかってだんだん大きくなり、ダンサーたちの踊りが激しくなると、魅入られてしまった。ダンサーたちはこれでもかとばかりに踊り、疲弊して倒れてはまた踊る。大丈夫かと思うほどに。途中で台詞が入り、ダンサーたちの背景が見える。それに似たシーンは『再/生』でもあった。そこでいったん共感する。彼らの背景、彼らの人生に。だけどその後はまた壮絶な世界が待っている。観ているうちに、だんだん辛くなってきた。倒れては曲がかかってまた立ちあがって踊るダンサーたちの姿を見て、なんだか生きることを強制されているように感じてしまったのだ。なんでこんなにまでして生きねばならないのだろう?と、苦しくなった。辛くなり、自分も疲弊してしまった。けれども観続けないといけないと思った。目をそらさず、生きてる自分はこれを観ないといけないと。終わって、爽快という感じはしなかったが、ダンサーたちの姿を見て、これでいいんだ、と思った。彼らは生きているし、踊っているのだ。観ている間、楽しい、嬉しい、わけもなくウキウキする、かと思えば腹が立つ、怒り、演出家がドS、ダンサー可哀相、でも楽しそう?、哀しい、興奮、疲れた、もういい、いやもっとやれ、ずっと観てたい・・・など、いろんな感情がよぎる。感情の塊のような作品。アフタートークで多田さんが「演劇バージョンでは死に向かっていたが、ダンスバージョンでは生に向かっていると言われた」というようなことを言っていたけれど、死に向かうのと生に向かうのは同義なんじゃないか・・・と思った。生のなかに死はあるのだし。生に向かえば死ぬのだ。

アル☆カンパニー『失望のむこうがわ』観劇。三浦大輔の2年半ぶり書き下ろし作品。戯曲ももちろん素晴らしいが、とにかく役者がすごすぎ。夫婦2人がテー ブルに向かい合わせで座って会話をする。動きはほとんどない。夫役の平田満は顔の筋肉、声の色、身にまとう空気、すべてを使って感情を表現。緻密すぎる会話劇。台詞の間、声のトーン、ささいな表情の動き、すべてが計算されているはずなのに、それをまったく感じさせず、役者の生の、そのときの本 物の感情が出ている。だからスリリングで、目が離せない。小さな空間でやっている地味な話なのに、無限に想像力が広がる。役者の誠実さがひしひしと伝わってきて、ぐわんと心を持っていかれる。ああ、この人たちは本当にこの芝居に命をかけている。真剣に芝居をするとは、こういうことなんだ。このように舞台上で本当に「生きて」いる役者が、いったいどれだけいるだろう?いや、いない。

さいたまネクスト・シアター第5回公演2014年・蒼白の少年少女たちによる『カリギュラ』観劇。なんという素晴らしさだ!カーテンコールで立ち上がって 頭上で拍手したのは何年ぶりだろう。カリギュラ役の内田健司、恐るべき俳優。美しく残虐で孤高で切実で、鬼気迫るカリギュラ。鋭く澄んだ瞳。カリギュラの強さと脆さ、このアンバランスさが絶妙だった。内田健司は、カリギュラという、この上なく残虐だけれど魅力的な人物を見事に体現していた。私は2007年にシアターコクーンで上演された舞台(小栗旬主演、長谷川博己勝地涼など出演)を観ていて、それも素晴らしかったが、この若者たちによる舞台がこんなにすごいとは。2007年版『カリギュラ』では、当時人気絶頂の小栗旬をタイトルロールに起用、鏡張りの壁面にカラフルな電球を張り巡らし、ポップでサイケでちょっと現代的にも感じる華やかな舞台に仕上がっていた。一方今回は、役者は全員無名、装置もシンプル。そのなかでカミュの戯曲の魅力がいっそう引き立っていた。暴君カリギュラが残虐の限りを尽くし、人々はそれに振り回され否応なく巻き込まれて理不尽に殺される。この不条理、そのなかに美があり詩がある。登場人物の一人であるケレアの台詞で、「カリギュラという存在は人々にとって不安だ。だからこそカリギュラの言っていることは、人に考えることを強いる」というようなものがあるが、確かにその通りだ。カリギュラの言っていることは常軌を逸しており、論理的でもなく不条理だ。それでもカリギュラの言葉に人は惹きつけられ、その意味、あるいは意味のなさ、というものを考えることを強いられる。なにを言いだすかわからない、なにをやらかすのかわからない、次の瞬間には誰かが殺されるかもしれない、ふとした気まぐれで自分が殺されるかもしれない・・・。カリギュラの存在は人々をこの上ない不安に陥れる。カリギュラの台詞で好きなのがたくさんある。「月が欲しい」「明日から飢饉だ」「私がペストになる」。なによりラスト、貴族たちに八つ裂きにされ、血だらけになりながら立ち、放つ台詞「おれはまだ、生きている!」。その後ドサリと仰向けに倒れ絶命する。なんて痺れるシーンだろう!2007年版では、カリギュラの「おれはまだ生きている!」で終わっているんだけど、今回はその後カリギュラが幕をあけて現れ台詞を言う。戯曲ではこのシーンはなくて「おれはまだ〜」が最後なのだけど、解説によると、これはカミュの手帖の構想に記されてた追加されている台詞だという。個人的には「おれはまだ生きている!」で終わったほうが潔いよいし、かっこいいと思う。カリギュラの不敵な感じ、最終的には滅ぼされるけど、それでもなお誇りはあるという感じが出ていて。だけど今回の終わり方も素晴らしかった。舞台全面の鏡が開き、舞台の奥へ奥へ、一筋の光のなか歩いていくカリギュラの後ろ姿。なんと美しいラストシーンだろうか。カーテンコールでは拍手が鳴り止まず、最後、蜷川幸雄が舞台に上がるとひときわ大きな拍手が沸き起こった。蜷川、すごすぎ。このエネルギーはなんなんだ。私が観たのが千秋楽だったということも手伝ってか、客席は沸いていて、スタオベも。とにかく内田健司をはじめとする役者たちの気迫が尋常じゃなかった。休憩時間にリピーターらしい女性たちが、「今日のカリギュラはものすごい、涙をたたえた目の輝きが全然違う」と話していて、やっぱりそうなんだ、と思った。

新国立劇場アルトナの幽閉者』観劇。サルトル最後の創作劇。第二次世界大戦後のドイツを舞台に、戦時中の心の傷から13年も自宅に引きこもったまま の主人公フランツを軸に「戦争」と「責任」、さらには出口の見えない状況に「幽閉」された人々を描いている(チラシ文章より)。会話劇で、劇的な展開もなく(最後のほうはいろいろあるけど)なんか地味な話だな、と思ったが、3時間半もの間、難解な台詞と格闘しながら舞台に立っていた俳優たちの姿は感動的。特に主人公フランツを演じた岡本健一がすごい熱演。美波も美しく華があり、あの役柄に合っている。吉本菜穂子の起用は意外な気がしたが、結構合っていた。演出はオーソドックスだけど、すごく丁寧な舞台だ。あの時代のサルトルによる戯曲を現代に蘇らせる・・・って、ものすごいことだ。しかし個人的にはテーマに惹かれず(私には難しく感じた)いまいちぴんとこなかったのは残念。

2月の観劇本数は6本。
観た本数は少ないが、どれも内容は濃かった。
アル☆カンパニー『失望のむこうがわ』、さいたまネクスト・シアター第5回公演2014年・蒼白の少年少女たちによる『カリギュラ』が特に素晴らしかった。