パルコ・プロデュース『クレイジーハニー』

パルコ・プロデュース『クレイジーハニー』

作・演出◇本谷有希子 出演◇長澤まさみ 成河(ソンハ) 安藤玉恵 吉本菜穂子 リリー・フランキー 中野麻衣 坂口辰平 太田信吾 札内幸太 池田大 中泰雅 北川麗 鉢嶺杏奈 加藤諒 清水葉月
8/5〜28◎PARCO劇場、9/3・4◎北國新聞赤羽ホール、9/6・7◎ももちパレス、9/9◎森ノ宮ピロティホール、9/13・14◎名鉄ホール


すごく面白かった。長澤まさみリリー・フランキー演じる人物の「可哀相」さが、笑っちゃうほど豪快でエッジが効いていていい。ワークショップ・オーディションで選ばれた10人の俳優たちがどの人も個性的で生々しく、本谷芝居には珍しいドキュメンタリー的な要素を醸し出していてよかった。


以下、ネタばれあり。


ケイタイ小説でデビューした作家・ひろみ結城(長澤まさみ)。その可愛らしい風貌から、当初はピュアな路線で売っていて、売れていたのだが、途中から彼女自身がその路線に疑問を感じ、赤裸々系の路線に変更。だんだん落ち目になってきて、今ではオカマのママ・真貴(リリー・フランキー)とつるんでいて、2人で定期的にトークショーをやっている。その出来もひどいものなのだが、それでも毎回集まるファンも数十人いる。ひろみは自意識の強さから、ファンたちを疑っている。自分に構わないでほしいと願う一方で、自分に興味のある人がどのくらいいるのかを気にするひろみ。その彼女の繊細な心が痛い。
私はひろみが羨ましい。落ち目になろうが、一時は有名になりちやほやされたのだし、今まで辛い人生を歩んできたとしても、波のあるジェットコースターのような人生のほうが、普通の人生より面白いと思うからだ。それに彼女には彼女を支えようとするファンがいる。ファンたちも私と同じような考えで、ひろみを偶像視し、応援しながらも、ひろみがなにかをやらかすことをどこかで期待しているようだ。それは彼ら自身の人生がごく普通で、退屈だからだ。彼らはひろみになんらかの期待をし、ひろみのアクションを常に気にかけている。だがひろみは、「人と人との繋がりは暴力だ」と断言し、ファンたちの繋がりを断罪する。
落ち目になってきたひろみに目をつけ、真貴とのトークショーをもとにひろみに「告白本」を書かせようとする編集者・二見(成河)。二見が企画したひろみの本のタイトルは『ファンよ私を殺せ』。三部構成で、第一部がトークショーの内容、第二部がファンたちが語るひろみ結城について、そして第三部が「ガチ」だという。二見は、トークショーの会場であるバーを仕切っている泉(安藤玉恵)に協力してもらい、トークショーに来ていたファンのなかから特に「ひろみを支えたい」と思っている風なファンを10人選び出し、トークショーの後で会場に戻らせ、二次会を行う。
訳もわからぬまま集まった10人のファンたち。二見はひろみの本の話をする。そこにひろみと真貴が登場し、彼らに契約を迫る。ひろみは悪態をついたり暴言を吐いたりするが、それでも、というかだからこそファンたちはひろみを可哀相と思ったりし、契約する。その後、会場を出たファンたちは、カラオケへ流れる。偶然カラオケボックスでファンたちとひろみと真貴は会い、すったもんだの末またトークショーの会場へ戻る。そこで壮絶なガチンコバトルが始まる・・・。
このひろみというのは、本谷有希子自身にも思えたし(「編集者はお世辞ばかり言う」という台詞のくだりなど)、綿矢りさにも思えた。綿矢りさは、可愛らしい容姿で、17歳でデビューしたから、オタクぽいファンも結構いたようだが、『夢を与える』という小説を書いたとき、セックスの描写が生々しく、オタクのファンの反応が(ネットとかでの)すごかったのだ。
とにかく、ひろみの持つ「毒」には共感した。「人と人との繋がりは暴力だ」とか「ぬくぬくしたものなんていらない」とか。ああ、わかるなあ、と思ってしまう私はおかしいのかも。あと、ひろみのファンに対する過剰な反応も、わかる気がする。「私に興味のない人は帰って」とか。世の中、自分に興味のある人以外はいなくていいのだ、と言っているかのような。ひろみは人と人との繋がりを口では否定しながら、それを欲しているかのようだ。みんなに興味を持ってほしいし、見ていてほしい。私がどんなに落ち目になっても、どんなひどいことを言ったりやったりしても、それでも私を好きでいてずっと興味を持っていて。そんなひろみの声が聞こえてくるような気がする。この二律背反なひろみの心情がわかるから、切なくて、共感できて、痛い。
そして、ファンたちを演じた10人の俳優が、それぞれキャラクターが立っている。ひろみや真貴とのバトルのシーンなんか、鳥肌ものだった。本谷有希子の芝居で、これだけ多くの人が出てくるものは珍しい。10人は10人とも違う考えを持っているのだけれど、ちょっとした台詞や動きで、たちまちのうちに心情が変わっていく。ファンたちはひろみを応援しているはずなのに、だからこそなのか、真貴を批判し、ひろみから離れろ、と言う。真貴は、「あんたたちが嫌い合うようになったら離れてやる」と言う。ファンたちは真貴のことを「オカマのおっさん」と嘲る。真貴は言う。「『六本木の蝶』と言われてちやほやされていたのはもう昔のこと。今のアタシは、いつ自殺してもおかしくないのよ」。真貴が自分のセクシャリティに言及する場面は胸が張り裂けそうになった。こういう性癖だからこういう人生になった、という真貴。確かに、真貴のような生き方をしていたら、年をとったらどうなるのだろう、という気はする。自殺、の二文字が頭をめぐったとしても、おかしくないような気もしてくる。
最後、真貴が自殺しようとしてある行動をするのだが、それを見てひろみは「真貴ちゃん、最高!あたしが好きなものがわかってる!」と笑う。そんなひろみも真貴も、一般の人の尺度では測れないほどおかしいのかもしれないが、それでも人間的な気がする。一方、ファンたちは、「もうファンやめます」と言って去っていく。それもまた人間的だ。
「ファン」って、一体なんだ。勝手なもんだな。勝手に好きになって関心を持って、勝手に応援して。それで勝手に離れて行って、あげくはネットで悪口を書いて。何様だよ。でも、それが「普通」のことなんだ、きっと。ファンの人たちは、関心を抱く対象を求めているだけなんだ。それがたまたまひろみだったんだ。そして、そんなファン個人の人生は、なにもない退屈なものなんだ。可哀相なのは一体どっちだ。ひろみの人生が可哀相だとしたら、ファンの退屈な人生は可哀相じゃないのか。というかひろみは「可哀相」なのか?私にはそうは思えない。ひろみもそう思ってないから、最後、笑い泣きするんじゃないだろうか。たとえば、ひろみがこのままどんどん落ちて行って、最悪自殺とか発狂とかしたとする。だけど、そうなったらひろみの人生は「可哀相な人生」ということになるのか?断じて違うと思う。それはひろみ以外の人は決して味わうことのできない豊かな人生だったのであり、可哀相どころか、羨むべき人生かもしれないのだ。ただそういう人生を引き受ける勇気は、普通の人にはない。だからひろみは非凡なのであり、それゆえ様々なファンがつくのだ。
ああ。やっぱり本谷有希子の描く幾重にも捩れた「毒」「悪意」は、いいな。どんどん洗練されてきている。本谷以外の人には決して書けないだろう、こんな本、こんな台詞。毒を放ちまくっていながら、突っ切っているから、不快じゃなく、爽快なのだ。ここまで突っ切ってくれると気持ちがいい。
私は普段芝居をたくさん観ていて、そのなかにはウェルメイドで感動できるものも数多い。そういう芝居も好きだが、そういう芝居はそのときに感動するというだけで、トラウマにはならない。私は芝居を観ることがトラウマになるような、強烈な体験を求めている。だから本谷有希子の芝居は、当たり外れはあるけれども、今回のように大当たりもあるので、見逃すことはできないのだ。